奈良時代も終わり頃、桓武天皇が即位します。
政権内では権力争いとそれに伴う陰謀は数多く、奈良時代の仏教依存から脱却したいのが桓武天皇の望み。
依存根強い平城京では脱却できないので、784年に長岡京に遷都します。
他に、平城京では水運が悪く、水運の改善を図った、という理由もあります。
水運の改善から長岡京遷都が行われ、桓武天皇側近で藤原四兄弟の子孫である藤原種継の暗殺、その事件処理による早良親王(桓武天皇の弟)の流刑と病死、長岡京で蔓延する疫病といった問題をわずか5年のうちに全て抱え、改めて794年、平安京へと遷都します。
今の京都市中心部です。
ここから近現代にいたるまで、(1180年と南北朝の時代を除き)遷都はされずにずっと首都であり続けます。
なお、実は平安京から首都を動かすことを命じる法令は出たことがない+東京を首都と定める法律は出ていないので、実は日本の首都がどこかには今も議論があります。
桓武天皇はその他にも東北地方を朝廷の勢力下に治めます(初代征夷大将軍・坂上田村麻呂の軍を派遣します)。
また、これまでの仏教を弾圧する一方で、最澄、空海らの、中国で学んできた新しい仏教(密教と言います)を国内に広めます。
道鏡のように政治に関わろうとする僧を遠ざけるため、というのが大きな理由ですが、仏教が政治に影響を持つこと自体はあまり変わりません。
変化としては、飛鳥・奈良時代から平安時代への移り変わりで、宗教で政治をする時代から、政治家が宗教を信じる時代へと変化していった、という点が挙げられます。
推古天皇の時代や奈良時代は、定められた法律自体が仏教を基にしたものであるのが多く、聖武天皇のように寺院建立することが世の中を変える、と信じられていた時代でした。
桓武天皇以降は、朝廷支配下の土地から税を徴収し逃すことがない天皇中心の国家を目指す形に変わります。
今でいう地方分権に近いイメージです。
戸籍に定めた人単位の租税から、土地に対して課税し、それらを地方ごとに徴収し中央に納める、という機構へと変化していきます。
この仕組みの中には、仏教は関係しません。
ここから、土地を守る人、というものが必要になってきますが、これこそが武士の発生の起源です。
さて、奈良時代以前からあまり大きく変わらないことはもう一つあります。
皇位継承の問題です。
桓武天皇の息子にあたる平城天皇と嵯峨天皇は仲が悪く、そこから発生した皇位継承問題が起こります。
皇位継承問題があると生じるのが、皇室関係者以外での権力争いと、皇室の人数増加です。
そもそも桓武天皇自身も皇子、皇女が多いのですが、嵯峨天皇、そして続く仁明天皇等にも皇子、皇女らが非常に多くいました(継承問題安定後もこういう天皇が少なからずいます)。
これらの皇子、皇女を全員皇室とすることは無理があるので、臣籍降下といって、皇室ではない人間とします、という宣言を出します。
結果として生まれるのが、源氏、平氏等の、この後の時代の中心となる家です。
政権内では権力争いとそれに伴う陰謀は数多く、奈良時代の仏教依存から脱却したいのが桓武天皇の望み。
依存根強い平城京では脱却できないので、784年に長岡京に遷都します。
他に、平城京では水運が悪く、水運の改善を図った、という理由もあります。
水運の改善から長岡京遷都が行われ、桓武天皇側近で藤原四兄弟の子孫である藤原種継の暗殺、その事件処理による早良親王(桓武天皇の弟)の流刑と病死、長岡京で蔓延する疫病といった問題をわずか5年のうちに全て抱え、改めて794年、平安京へと遷都します。
今の京都市中心部です。
ここから近現代にいたるまで、(1180年と南北朝の時代を除き)遷都はされずにずっと首都であり続けます。
なお、実は平安京から首都を動かすことを命じる法令は出たことがない+東京を首都と定める法律は出ていないので、実は日本の首都がどこかには今も議論があります。
桓武天皇はその他にも東北地方を朝廷の勢力下に治めます(初代征夷大将軍・坂上田村麻呂の軍を派遣します)。
また、これまでの仏教を弾圧する一方で、最澄、空海らの、中国で学んできた新しい仏教(密教と言います)を国内に広めます。
道鏡のように政治に関わろうとする僧を遠ざけるため、というのが大きな理由ですが、仏教が政治に影響を持つこと自体はあまり変わりません。
変化としては、飛鳥・奈良時代から平安時代への移り変わりで、宗教で政治をする時代から、政治家が宗教を信じる時代へと変化していった、という点が挙げられます。
推古天皇の時代や奈良時代は、定められた法律自体が仏教を基にしたものであるのが多く、聖武天皇のように寺院建立することが世の中を変える、と信じられていた時代でした。
桓武天皇以降は、朝廷支配下の土地から税を徴収し逃すことがない天皇中心の国家を目指す形に変わります。
今でいう地方分権に近いイメージです。
戸籍に定めた人単位の租税から、土地に対して課税し、それらを地方ごとに徴収し中央に納める、という機構へと変化していきます。
この仕組みの中には、仏教は関係しません。
ここから、土地を守る人、というものが必要になってきますが、これこそが武士の発生の起源です。
さて、奈良時代以前からあまり大きく変わらないことはもう一つあります。
皇位継承の問題です。
桓武天皇の息子にあたる平城天皇と嵯峨天皇は仲が悪く、そこから発生した皇位継承問題が起こります。
皇位継承問題があると生じるのが、皇室関係者以外での権力争いと、皇室の人数増加です。
そもそも桓武天皇自身も皇子、皇女が多いのですが、嵯峨天皇、そして続く仁明天皇等にも皇子、皇女らが非常に多くいました(継承問題安定後もこういう天皇が少なからずいます)。
これらの皇子、皇女を全員皇室とすることは無理があるので、臣籍降下といって、皇室ではない人間とします、という宣言を出します。
結果として生まれるのが、源氏、平氏等の、この後の時代の中心となる家です。