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【読むだけ日本史】貴族世界の宗教事情

5/23/2016

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皇室の安定と共に、藤原家の権力も絶大になっていきました。

菅原道真左遷後、藤原家の敵となるような貴族はおらず、権力は藤原家内で誰が一番になるか、というものになっていきます。

時平以降、その弟・忠平が藤原家のトップになりますが、その中でまた誰が権力者になるか、と争いが続きます。

​とはいっても、そんな争いがあったのも藤原道長の父の代が最も激しく、それ以外は比較的円満と言っていいでしょう。

娘や姉妹を天皇家に嫁がせ、摂政、または関白として政治の実権を握る、という関係です。

その藤原道長といえば、摂関政治の最盛期を築いたのみならず、法成寺の建立が有名です。

また、その後継者である藤原頼通も、宇治平等院鳳凰堂の建立が有名です。

どちらも平安時代を代表する建築物ですが、極楽浄土の思想に基づきます。

では、その極楽浄土、というものが成立するまでを、最近手薄になっていた宗教面から見ていきましょう。



最初に見るべきなのは、やはり奈良時代の仏教からでしょう。

それ以前の日本の仏教は、聖徳太子によって政治の一部として使われました。

これは当たり前で、飛鳥時代以前では、見てきたとおり、言ってしまえば宗教=政治、占いによる政治という感じがあったため、そこから政治と宗教が分離していく必要が出るわけです。

奈良時代は、まだ宗教と政治を分離するのではなく、宗教と政治の境目をはっきりさせることが主たる考えのように見えます。

そのため、この時代の仏教の取扱いは、​「政治をしっかりと行い、その政策の一つに仏教というものがある」という感覚でした。

まだまだ仏教が直接世の中を変えると信じられている世界です。

そのため、たとえば聖武天皇が命じた国分寺・国分尼寺建立は、それだけで世の中が良くなると考えられていました。

また、正しく仏教の教えを学んでいない人(戒律を守らない人、を言い換えてます)が増えたため、正しく教えを伝えてもらうため、中国から鑑真を呼びます。

彼によって改めて正しい仏教の教えを乞う、というのがこの時代の仏教との関わり方です。

奈良時代までの仏教との関わり方から考えると、仏教に関するものを建立することが文化の中心にある、といってもよいでしょう。


さて、奈良時代の仏教が力を持つと、政権担当者、すなわち天皇としては不愉快です。

そのため平安京に遷都した、というのが以前の平安遷都でした。

しかし、これまで仏教に依存していた国が、いきなり仏教なしで政治ができるわけもありません。

特に、善悪の判断は、ここまでの歴史として、仏教的思想が染みついています。

そのため、平安初期には「どのように仏教を政治から切り離すか」ということが重要になってきました。

遷都したこともあり、京にはまだ仏教が深く根付いているわけではありません。

これをいい機会、とばかりに複数の僧を仏教勉強のために中国に送りました。

804年、18回目の遣唐使の時代です。

旧都奈良から距離を取り、かつ新都で改めて仏教を学んだ結果、平安時代初期の政府は仏教とは切り離された、でも貴族の信仰は仏教、特に浄土信仰、という時代ができました。

簡単に言えば、現世には救いがないため、死後に極楽浄土に導かれる、と言うところでしょうか。

極楽への憧れから、かなり華美な建築が目立つようになります。

いわゆる、優雅な貴族のイメージ通りのものになります。



案外重要なのは、平安時代までの貴族は仏教徒であるものの、市民は特別仏教を厚く信仰していたとも限らない、という点です。

奈良時代までの仏教による政治と、平安時代の政治を行う人々の信仰としての仏教、という違いがあれど、基本的にはこの時代までの仏教は貴族のためのものです。

これには非常に大きな意味があります。

平安時代までの文化は、基本的に貴族の文化であって、民衆の生活がどうか、というところからは離れたものが多いのです。

例えば、『源氏物語』は貴族の宮廷における恋愛小説(陳腐な言い方ですいません…)であり、『枕草子』も貴族による日常エッセイにすぎないということです。

また、仮名の発生を見るのもこの時期ですが、貴族文化における、簡略化した記法のための道具にすぎませんでした。



さて、貴族社会において、権力と共に存在したのが土地です。

そして、主に藤原氏の権力も、浄土信仰とは切り離されておらず、故に平等院鳳凰堂等は本当に大きな出費となっていたでしょう。

これらの事情が、次の時代に関係しています。

ここまで壬申の乱以外大きな戦乱とはほぼ無縁でしたが、この後約700年近くが武士による時代です。

なぜ武士が台頭したのか、次回からは武士の時代です。
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【読むだけ日本史】『栄花物語』までの道3~藤原氏はいかにして権力を持ったのか

5/6/2016

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日本史も更新再開です(とか言いながらまた1週間以上空いた)。

たしか平安京遷都までを書いていたはずですが、平安京に遷都しても問題は山積みでした。

桓武天皇の必死の親政も寿命には勝てず、後継者を決めます。

後継の皇子たちが実はとても仲が悪く、皇位をたらいまわしにします。

その結果、皇位の安定を迎えるのは清和天皇の時代、遷都から64年後のことです。

そして、この安定も陰謀を基にして作られた安定で、清和天皇の子で次代・陽成天皇を退位させ、清和天皇の叔父・光孝天皇に皇位が移ります。

皇位のたらいまわしと陽成天皇の退位は性質が異なることでした。

後者は藤原氏による譲位、というのが実態です。



なぜ藤原氏がここまでの力を持っていたのか。

それは、皇室に娘や姉妹を嫁がせ、外戚として権力を持つ、というあの蘇我氏がやっていた仕組みで、藤原不比等の子孫が外戚になっていたためです。

実は、皇位のたらいまわしをしている間、藤原氏内部での争いもさることながら、他の有力氏族との争いも多くありました。

例えば、823年の承和の変では、橘氏をはじめとした多くの有力貴族を排斥しました。

そんな他氏排斥の行動が功を奏し、清和天皇の時代には藤原良房が時の権力者として君臨しました。

陽成天皇の頃にはその権力者も良房の後継者・藤原基経に移っており、応天門の変等の政変でさらに権力を強めました。

権力の絶頂である藤原氏にとって目指したいのは、さらなる強権です。

その結果として、自分たちの言うことを聞く光孝天皇への譲位、という形で安定を作ったのです。



さて、光孝天皇はこの頃の皇位継承問題に巻き込まれることを嫌ったのもあって、自身の子を全員臣籍降下させます。

皇室の人間ではなく、一般人である、とすることです。

その臣籍降下した中から唯一天皇になったのが醍醐天皇で、彼の時代には摂政、関白を置かない政治が実現しました(延喜の治、といい、光孝では重要事項)。

醍醐天皇の系譜を確認してみると、養母も中宮も藤原基経の娘、左大臣(当時の一番偉い大臣)には藤原時平(基経の子)と、政権内には藤原氏の親戚がとても多く、そのため、対立する有力者である菅原道真を左遷する等、権力を独占しました。
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【読むだけ日本史】『栄花物語』までの道2~遷都と政治機構の変化

3/30/2016

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奈良時代も終わり頃、桓武天皇が即位します。

政権内では権力争いとそれに伴う陰謀は数多く、奈良時代の仏教依存から脱却したいのが桓武天皇の望み。

依存根強い平城京では脱却できないので、784年に長岡京に遷都します。

他に、平城京では水運が悪く、水運の改善を図った、という理由もあります。

水運の改善から長岡京遷都が行われ、桓武天皇側近で藤原四兄弟の子孫である藤原種継の暗殺、その事件処理による早良親王(桓武天皇の弟)の流刑と病死、長岡京で蔓延する疫病といった問題をわずか5年のうちに全て抱え、改めて794年、平安京へと遷都します。

​今の京都市中心部です。

ここから近現代にいたるまで、(1180年と南北朝の時代を除き)遷都はされずにずっと首都であり続けます。

なお、実は平安京から首都を動かすことを命じる法令は出たことがない+東京を首都と定める法律は出ていないので、実は日本の首都がどこかには今も議論があります。

桓武天皇はその他にも東北地方を朝廷の勢力下に治めます(初代征夷大将軍・坂上田村麻呂の軍を派遣します)。​



また、これまでの仏教を弾圧する一方で、最澄、空海らの、中国で学んできた新しい仏教(密教と言います)を国内に広めます。

道鏡のように政治に関わろうとする僧を遠ざけるため、というのが大きな理由ですが、仏教が政治に影響を持つこと自体はあまり変わりません。

変化としては、飛鳥・奈良時代から平安時代への移り変わりで、宗教で政治をする時代から、政治家が宗教を信じる時代へと変化していった、という点が挙げられます。

推古天皇の時代や奈良時代は、定められた法律自体が仏教を基にしたものであるのが多く、聖武天皇のように寺院建立することが世の中を変える、と信じられていた時代でした。

桓武天皇以降は、朝廷支配下の土地から税を徴収し逃すことがない天皇中心の国家を目指す形に変わります。

今でいう地方分権に近いイメージです。

戸籍に定めた人単位の租税から、土地に対して課税し、それらを地方ごとに徴収し中央に納める、という機構へと変化していきます。

この仕組みの中には、仏教は関係しません。

​ここから、土地を守る人、というものが必要になってきますが、これこそが武士の発生の起源です。



さて、奈良時代以前からあまり大きく変わらないことはもう一つあります。

皇位継承の問題です。

桓武天皇の息子にあたる平城天皇と嵯峨天皇は仲が悪く、そこから発生した皇位継承問題が起こります。

皇位継承問題があると生じるのが、皇室関係者以外での権力争いと、皇室の人数増加です。

そもそも桓武天皇自身も皇子、皇女が多いのですが、嵯峨天皇、そして続く仁明天皇等にも皇子、皇女らが非常に多くいました(継承問題安定後もこういう天皇が少なからずいます)。

これらの皇子、皇女を全員皇室とすることは無理があるので、臣籍降下といって、皇室ではない人間とします、という宣言を出します。

結果として生まれるのが、源氏、平氏等の、この後の時代の中心となる家です。
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【読むだけ日本史】『栄花物語』までの道1~政教一致

3/26/2016

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701年の大宝律令は、中央集権を目指した律(現代の刑法相当)令(民法等相当)でした。

この施行で、ひとまずは天皇中心の国家の完成です。

中大兄皇子から続く国家づくりの一つの集大成とも言えるでしょう。

710年には都を平城京に移し、基本的にはここが100年弱首都となります。



しかし、中大兄皇子の考えていた"国家"と、大宝律令施行がつくった"国家"は全く別で、皇位争いは沈静化していません。

そもそも、表立った争いはなくとも、盤石な時代ではなかったと言えるでしょう。

中臣鎌足の死後、皇族以外で力を持った1人に、彼の子の藤原不比等がいます。

大宝律令制定にかなり貢献し、中心として政権内で大きな力を持ちました。

また、元明天皇の時代に起きた平城京遷都にも大きく貢献しています。

彼が権力を持つ時代は皇位も安定しています(とは言っても後の聖武天皇が幼少であったため+天武天皇の子孫で有力な皇子がいないため女性天皇の時代が続いていて、表立ったことはほとんど起きていないにすぎないだけなのですが)。

不比等の死後は、政権内での有力者である不比等の4人の子(藤原四兄弟)と長屋王(天武天皇の孫ではあるが、持統天皇の流れではないため皇位継承しない家)とが対立し、藤原四兄弟が企てた長屋王の変で長屋王が敗死します。

長屋王の敗死により、朝廷内での有力者は藤原四兄弟が占領します。

その結果、彼ら兄弟の妹を聖武天皇の皇后とすることに成功します(光明皇后)。

光明皇后は、非皇族から出た最初の皇后で、後の世に重要な意味を持ちます。



さて、どっかで見たような、天皇と縁戚関係を持つことによる有力者化を達成した四兄弟ですが、彼らの天下はすぐ終わります。

都を中心とする各地で天然痘が流行り、737年に四兄弟全員が亡くなる等、大きく政局が変わります。

聖武天皇は、天然痘の流行りをなくすため、人ではないものに頼ります。

「どうか1年間、無病息災に過ごせますように」と初詣で祈願するのと似た感覚です。

頼ったのは仏教。

その結果、各地に国分寺を建て、平城京付近では東大寺に大仏を建てます。

全国に建てるわけですから、膨大な資金が必要です。

現代風に考えれば、これは公共事業であるため、税で資金繰りするわけです。

当時の税は、大宝律令発布前の、天智天皇時代の税制改革(租調庸など)をベースにしているので、国から分け与えた口分田の獲れ高に従います。

税収を増やすためには、一番単純な方法は、土地を開墾させ、獲れ高を上げることです。

当時の制度(三世一身法)では三代で土地を返すため、あまり開墾する意欲がわきません。

そこで、墾田永年私財法を発布し、開墾した土地はその人の土地とする仕組みが出来上がりました。

賛否はあったのでしょうが、天皇中心国家からの乖離の始まりです。



聖武天皇の後にはその娘・孝謙天皇(一度皇位を降り、重祚して称徳天皇)が皇位に就き、仏教を重く扱う政治を続けます。

そこに付け入った道鏡という僧が自身を称徳天皇の後の天皇にしようと画策したり、そのために他の有力者を失脚させたりします。

また、すっかり仏教に肩入れしすぎたため、盤石な権力とは言えない状況となりました。

称徳天皇の後、光仁天皇の治世下では、仏教が強く前に出ることは減りましたが、権力争いによる陰謀等が多く起こりました。



政教が一致していたために国が乱れた時代である奈良時代の文化は、天平文化と呼ばれ、奈良以前の時代、飛鳥時代の文化である白鳳文化と共に仏教文化でした。

大仏、寺院の建立が多かった、という特徴を持ちます。

どちらの文化も、中国等の大陸側から"輸入した"大陸に学んだ文化です。

ここから、日本が2回経験する"外国断ち"の最初の時代に入ります。
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【読むだけ日本史】王権の確立2~律令制度への移行

3/23/2016

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推古天皇・蘇我馬子・厩戸皇子の三頭政治以降、再び天皇家の外戚という立場で力を持った人がいます。

蘇我蝦夷・入鹿親子です(馬子の子と孫)。

背景としては、推古天皇崩御後、皇族内での後継争いが発生したため、三頭の一角の子孫として力があった蝦夷が後継者を選び、政務にあたった、という形。

本意で権力を持ったか否かは別として、天皇でもないのに権力を持つ、ということに関して、あまりいい顔をしない人達は確実にいます。

そのいい顔をしなかった一人が、中大兄皇子と中臣鎌足。

教科書ではこの2人により大化の改新が行われ、蘇我蝦夷・入鹿親子を討った、とされています(蘇我親子を討伐したのは乙巳の変というのが正しいです)。

大化の改新、というものであったかは実は今も議論がわかれるところですが、中大兄皇子と中臣鎌足は「天皇を中心とする、実力が優先される国家づくり」ということを考え、実行していった、と言えます。

そのための準備として、蘇我親子を討伐した、という見方もできると思いますが、『日本書紀』等の記述を受け入れれば、蘇我親子の独裁政治が目に余った、というのが理由のようです。

どちらにせよ、租調庸の税制度や、戸籍を作りそれに基づいて天皇の土地を貸し与える代わりに税を収める班田収授法を制定したのは中大兄皇子らの功績です。



実際にこれらの改革をしている時、中大兄皇子は皇太子のままですが、権力は天皇家に戻りました。

が、今度は天皇家内での権力争いが発生します(推古天皇崩御からずっと続いてはいるんですが、蘇我氏が権力を失ってから、という意味ではこの時期からです)。

最初は上の改革中の天皇・孝徳天皇と中大兄皇子。

不和となったすぐ後に孝徳天皇が崩御したため、表立った戦乱にはなっておりません。

孝徳の後を中大兄皇子の母が斉明天皇として継ぎ、その後中大兄皇子が天智天皇として即位します。

天智の治世下では、蘇我氏が力を持っていた頃の制度である大連・大臣の制度を廃止し、太政大臣・左大臣・右大臣といった役職を置くなど、645年(乙巳の変の年)以降続けていた改革を進めます(というかたしか即位前の方が改革多かったような…)。



2つ目の権力争いは、天智天皇崩御後に起こります(比較的小さな騒動は他にもあります)。

天智天皇の子である大友皇子(弘文天皇と追号されます)と大海人皇子による争いです。

乱の原因が何かは諸説ありますが、天智天皇も大海人皇子も天皇中心の国家づくりについては方向を同じとしていたものの、皇位継承をそれまでの兄弟優先の継承か、親子優先の継承か、に対する主張の違いから起きた争いであった、と私は考えています。

急進的に進んだ天智天皇の一連の改革が、臣下の豪族たちには受け入れられない部分があったのでしょう。

その不満を味方に付けた大海人皇子がこの争いに勝利します。

この一連の大友皇子と大海人皇子の争いを壬申の乱といいます。

おそらく、天皇家が明確に武力で衝突した最初の出来事、と言えるでしょう。



壬申の乱以降、大海人皇子は天皇として即位し、天武天皇となります。

天武天皇の代になって、ようやく天皇中心の政治、というものを実現する準備が整います。

天武天皇の孫(文武天皇)の代に大宝律令が制定され、この律令をもって「日本」という国号が正式に決まりました。
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【読むだけ日本史】王権の確立1~縁戚関係による権力掌握

3/21/2016

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古墳時代に力があった一族、とぼかして終わっていたものですが、天皇のことを指します。

が、教科書の表舞台に、いきなり権力者として現れることはありませんでした。

どのように権力を集めていくか、それを今回から扱います。



古墳の時代末期以降、天皇家の他、物部氏、大伴氏、中臣氏、蘇我氏等が力を持っていました(どの家も王朝の家臣ではあるんですが)。

そして、古墳時代から飛ぶこと300年程度、ある大きな出来事が起こります。

初の女性天皇・推古天皇が即位します。

推古天皇の即位の背景は、やはり権力争いから起きている出来事です。

即位の前時点で、仏教を取り入れるべきかどうか、という点に対して論争がありました。

中心は上に出てきた物部氏と蘇我氏。

仏教を排するべし、とする物部氏と、仏教を取り入れるべし、とする蘇我氏が争っている中、推古天皇の前代である崇峻天皇の即位で勝敗が確定します。

勝利するのは蘇我氏。

その後、当時の蘇我氏の中心である蘇我馬子(名前の終わりが子、だけど男です)が崇峻を暗殺し、蘇我氏が絶対的な力を持ちます。

実はこの蘇我氏はこの時代のほとんどの皇族と親戚関係で、崇峻天皇は馬子の娘婿かつ甥(妹の子供)、推古天皇も姉方の甥(そしてどちらの甥も父親は欽明天皇)。

この、娘を天皇家(または権力者)に嫁入りさせその外戚として権力を得る、という構造は、日本史上最も重要な人間関係であるので、一つの型として意識してください。

少なくとも鎌倉時代までは教科書に載るレベルで表に出てきます。

元々は物部氏よりも下位であった蘇我氏が力を持つ背景としては、この血縁が外せません。

より蘇我氏が権力を持ちやすいように、崇峻天皇暗殺後に皇族の中で一番都合がいい人を天皇にしたのが推古天皇というわけです。



推古天皇は皇太子として厩戸皇子(聖徳太子)を立て、蘇我馬子と三頭政治を行いました。

有名な冠位十二階や十七条憲法と行った制度を制定し、国家発展の勉強として小野妹子(-子、だけど男)らを遣隋使(隋は中国の当時の国名)として派遣したのが覚えるべき出来事。

このまま三頭政治がうまくいけば良かったのですが、寿命には勝てません。

厩戸皇子、蘇我馬子、推古天皇が相次いで亡くなると、国家はまた荒れました。

次回は、ここから王権を確立するまでを扱います。
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【読むだけ日本史】争乱の発生

3/18/2016

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縄文土器の発生とともに、日本では植物食が中心に移行してきました。

14000年前頃のお話です。

そこから10000年と少し、本州、九州、四国での文化は大きく変わります。

この10000年間は、狩猟中心から農耕中心型生活への移行期、ともいえる時代でした。

紀元前6000年頃から稲作も始まっています(厳密にいつ頃から始まっているかは比定できていないらしいです)。

紀元前4000年ころには、漁業での交易目的で他の集落と交流したような形跡もあるとか。

貝塚等の存在から、定住も始まっています。

なお、いつまでを縄文時代、とするかは今も学術的に論争はあるようです。

ここでは縄文時代は争乱が常態化する前を縄文時代としておきます。



稲作が定着したころ、縄文土器と比べて薄くて堅い土器が発見されました。

いわゆる弥生土器です。

そしてこの弥生土器の出土した時代を弥生時代としています。

弥生時代の特徴は、高地性集落、環濠集落といった、他の集落から入りづらい場所に人が集まる時代でした。

なぜこのような集落ができていたのか。

それは、稲作と密接に関わった当時の生活に関係して、争乱が発生するようになっていたからです。

まず、米(稲)という植物ですが、収穫は秋に行われます。

この実は、とてもおいしい(個人的にはそうは思わないけれど)ので少しでも多く食べたいです。

そして、できることなら一年中食べていたい。

多く、長い間食べ続けるためには、当然保存の必要性が出ます。

この保存のために土器が使われていた、という点は縄文時代と基本は同じです。

違いは、少しでも多く、という部分です。

農産物は当然、作る場所の面積と収穫量に相関があるものです。

では、自分たちの土地で限界まで作っているのにもっと欲しい場合はどうすればいいでしょうか。

買う、というのは貨幣が流通する近現代の発想です。

交換する、ためにはお互いに違うものを欲しがらないといけません。

品種改良等で面積当たりの収穫量を増やす、というのは今だからできる方法です。

ということで、単純な話にすれば、他者から奪うのです。

争乱の発生です。

この争乱の時代、人が住んでいる集落をムラとしましょう。

そのムラが大きくなり、クニを作ります。

そして、そのクニとクニとが争います。

ある人物の登場まで、日本の中でのクニ間戦争が絶えなかったといいます。

そのある人物とは、卑弥呼。

彼女が治めた方法は占い等による、とされているようですが、「事鬼道、能惑衆」という記述の鬼道、惑の意味はわかってないようです。

彼女が活躍した時代は240年代。


弥生時代とされる時代の終わり頃です。

卑弥呼の死後は、また争乱が起こり、改めて女王を即位させたら静まった、とのこと。



その卑弥呼以外にも、力を持ったクニはあったかもしれません。

そして、クニがある以上、その統治者がいるはずです。

卑弥呼の国・邪馬台国がどこにあったのかはまだはっきりしていないことですが、この弥生時代の後、日本各地で大型の墓が数多くできます。

これを古墳と呼びます。

四大文明の一つ、エジプトにも同じ意図のもの・ピラミッドがありますが、ピラミッドと同じく、権力者の墓を、権力度合に応じて大きくしている、という傾向があるようです。

この古墳が多くできる時代が古墳時代と呼ばれ、この時代の中のどこかで大和朝廷ができていくことになります(大和朝廷の語句使用は論争がありますが、教科書はこれで書かれているはずなので)。



この古墳時代のとある力を持っていた大王の一族を中心に、この後を見ていくことにします。

次回から、ようやく史実と人がいっぱい出てくる内容です。



なお、この記事までで扱った旧石器、縄文、弥生、古墳各時代ですが、これらは全て本州、九州、四国を中心としたエリアの歴史になります。

沖縄や北海道はそれぞれに独自の文化、歴史を作っていきます。

が、教科書があまり扱わないので、ここでも残念ながら少しずつしか触れることができないかもしれません。

今後も上のエリア中心です。
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【読むだけ日本史】四大文明

3/11/2016

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四大文明は直接は日本史に関係ありません。

もちろん四大文明ありきで歴史が始まるので、完全な無関係ではありませんが、直接的にはあまり大きくありません。

それでも、四大文明から始めることには、中学社会科全体として大きな意味があります。

言うまでもなく、四大文明とは、
・エジプト文明
・メソポタミア文明
・インダス文明
・黄河文明
のことです(黄河に関しては最近は長江文明等とあわせ、言い方が黄河・長江文明とか中華文明とか言うようです)。

学校の歴史ではあまり強く言われないことですが、実は、この4つの文明は非常に大きな意味があります。

それは、4つとも大きな川のまわりで文明が起こったということです。

それぞれ、ナイル川、チグリス川とユーフラテス川、インダス川、黄河という川を中心に文明が興りました。

川のまわり、ということが意味するのは、人間が生活するためには水が不可欠ということです。

今現在の大都市を見ても、ニューヨーク、ロンドン、東京、パリ、シンガポール、シドニー等、世界の大都市のほとんどが川、または海に面しています。

水、ないしは港を求めて活動する、ということは、今後見ていく歴史の中で、度々出てくることです。

特に日本という国は水と関わりが強く、水に関わることが多く出てくるでしょう(出なかったらごめんなさい)。

次回、土器のできる頃から日本のお話をはじめます。
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【読むだけ中学日本史】はじめに

3/7/2016

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中学の社会科は大きく3分野からできています。

地理、公民、歴史です。

このうち、出題のパターンもおおよそ決まっている公民は、用語を覚えるだけで点数が上がります。

一方、地理はグラフの読み方やちょっとした知識を覚えることが必要で、暗記からは程遠い分野です。

歴史は、その中間の科目です。

覚えることで点数が上がりますが、単純な暗記では年代整序問題には対応しづらいでしょう。

また、語句の整理がうまくいかず、似て非なるものを書いてしまうこともあるかもしれません。

このシリーズでは、ただ読むだけで中学の歴史を理解することを目標として書きます。

主眼は「中学日本史を少ない時間で覚えること」なので、多少の史実曲げを行うことがあります(その場合一部を除き必ず注を入れます)。

3日坊主シリーズを増やす可能性は大きいですが、他のシリーズと違ってストックの原稿があるので大丈夫かな、と思ってます。

力尽きるとしたら江戸時代に入った頃が濃厚です(ストックがないので)。

また、高校生にも歴史の流れを理解するためのツールとなれば、と考えているため、一部中学範囲外の語句も出ます。

次回、日本史と言いながら四大文明から始まります。
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    Paul T. Minamoto

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