皇室の安定と共に、藤原家の権力も絶大になっていきました。
菅原道真左遷後、藤原家の敵となるような貴族はおらず、権力は藤原家内で誰が一番になるか、というものになっていきます。
時平以降、その弟・忠平が藤原家のトップになりますが、その中でまた誰が権力者になるか、と争いが続きます。
とはいっても、そんな争いがあったのも藤原道長の父の代が最も激しく、それ以外は比較的円満と言っていいでしょう。
娘や姉妹を天皇家に嫁がせ、摂政、または関白として政治の実権を握る、という関係です。
その藤原道長といえば、摂関政治の最盛期を築いたのみならず、法成寺の建立が有名です。
また、その後継者である藤原頼通も、宇治平等院鳳凰堂の建立が有名です。
どちらも平安時代を代表する建築物ですが、極楽浄土の思想に基づきます。
では、その極楽浄土、というものが成立するまでを、最近手薄になっていた宗教面から見ていきましょう。
最初に見るべきなのは、やはり奈良時代の仏教からでしょう。
それ以前の日本の仏教は、聖徳太子によって政治の一部として使われました。
これは当たり前で、飛鳥時代以前では、見てきたとおり、言ってしまえば宗教=政治、占いによる政治という感じがあったため、そこから政治と宗教が分離していく必要が出るわけです。
奈良時代は、まだ宗教と政治を分離するのではなく、宗教と政治の境目をはっきりさせることが主たる考えのように見えます。
そのため、この時代の仏教の取扱いは、「政治をしっかりと行い、その政策の一つに仏教というものがある」という感覚でした。
まだまだ仏教が直接世の中を変えると信じられている世界です。
そのため、たとえば聖武天皇が命じた国分寺・国分尼寺建立は、それだけで世の中が良くなると考えられていました。
また、正しく仏教の教えを学んでいない人(戒律を守らない人、を言い換えてます)が増えたため、正しく教えを伝えてもらうため、中国から鑑真を呼びます。
彼によって改めて正しい仏教の教えを乞う、というのがこの時代の仏教との関わり方です。
奈良時代までの仏教との関わり方から考えると、仏教に関するものを建立することが文化の中心にある、といってもよいでしょう。
さて、奈良時代の仏教が力を持つと、政権担当者、すなわち天皇としては不愉快です。
そのため平安京に遷都した、というのが以前の平安遷都でした。
しかし、これまで仏教に依存していた国が、いきなり仏教なしで政治ができるわけもありません。
特に、善悪の判断は、ここまでの歴史として、仏教的思想が染みついています。
そのため、平安初期には「どのように仏教を政治から切り離すか」ということが重要になってきました。
遷都したこともあり、京にはまだ仏教が深く根付いているわけではありません。
これをいい機会、とばかりに複数の僧を仏教勉強のために中国に送りました。
804年、18回目の遣唐使の時代です。
旧都奈良から距離を取り、かつ新都で改めて仏教を学んだ結果、平安時代初期の政府は仏教とは切り離された、でも貴族の信仰は仏教、特に浄土信仰、という時代ができました。
簡単に言えば、現世には救いがないため、死後に極楽浄土に導かれる、と言うところでしょうか。
極楽への憧れから、かなり華美な建築が目立つようになります。
いわゆる、優雅な貴族のイメージ通りのものになります。
案外重要なのは、平安時代までの貴族は仏教徒であるものの、市民は特別仏教を厚く信仰していたとも限らない、という点です。
奈良時代までの仏教による政治と、平安時代の政治を行う人々の信仰としての仏教、という違いがあれど、基本的にはこの時代までの仏教は貴族のためのものです。
これには非常に大きな意味があります。
平安時代までの文化は、基本的に貴族の文化であって、民衆の生活がどうか、というところからは離れたものが多いのです。
例えば、『源氏物語』は貴族の宮廷における恋愛小説(陳腐な言い方ですいません…)であり、『枕草子』も貴族による日常エッセイにすぎないということです。
また、仮名の発生を見るのもこの時期ですが、貴族文化における、簡略化した記法のための道具にすぎませんでした。
さて、貴族社会において、権力と共に存在したのが土地です。
そして、主に藤原氏の権力も、浄土信仰とは切り離されておらず、故に平等院鳳凰堂等は本当に大きな出費となっていたでしょう。
これらの事情が、次の時代に関係しています。
ここまで壬申の乱以外大きな戦乱とはほぼ無縁でしたが、この後約700年近くが武士による時代です。
なぜ武士が台頭したのか、次回からは武士の時代です。
菅原道真左遷後、藤原家の敵となるような貴族はおらず、権力は藤原家内で誰が一番になるか、というものになっていきます。
時平以降、その弟・忠平が藤原家のトップになりますが、その中でまた誰が権力者になるか、と争いが続きます。
とはいっても、そんな争いがあったのも藤原道長の父の代が最も激しく、それ以外は比較的円満と言っていいでしょう。
娘や姉妹を天皇家に嫁がせ、摂政、または関白として政治の実権を握る、という関係です。
その藤原道長といえば、摂関政治の最盛期を築いたのみならず、法成寺の建立が有名です。
また、その後継者である藤原頼通も、宇治平等院鳳凰堂の建立が有名です。
どちらも平安時代を代表する建築物ですが、極楽浄土の思想に基づきます。
では、その極楽浄土、というものが成立するまでを、最近手薄になっていた宗教面から見ていきましょう。
最初に見るべきなのは、やはり奈良時代の仏教からでしょう。
それ以前の日本の仏教は、聖徳太子によって政治の一部として使われました。
これは当たり前で、飛鳥時代以前では、見てきたとおり、言ってしまえば宗教=政治、占いによる政治という感じがあったため、そこから政治と宗教が分離していく必要が出るわけです。
奈良時代は、まだ宗教と政治を分離するのではなく、宗教と政治の境目をはっきりさせることが主たる考えのように見えます。
そのため、この時代の仏教の取扱いは、「政治をしっかりと行い、その政策の一つに仏教というものがある」という感覚でした。
まだまだ仏教が直接世の中を変えると信じられている世界です。
そのため、たとえば聖武天皇が命じた国分寺・国分尼寺建立は、それだけで世の中が良くなると考えられていました。
また、正しく仏教の教えを学んでいない人(戒律を守らない人、を言い換えてます)が増えたため、正しく教えを伝えてもらうため、中国から鑑真を呼びます。
彼によって改めて正しい仏教の教えを乞う、というのがこの時代の仏教との関わり方です。
奈良時代までの仏教との関わり方から考えると、仏教に関するものを建立することが文化の中心にある、といってもよいでしょう。
さて、奈良時代の仏教が力を持つと、政権担当者、すなわち天皇としては不愉快です。
そのため平安京に遷都した、というのが以前の平安遷都でした。
しかし、これまで仏教に依存していた国が、いきなり仏教なしで政治ができるわけもありません。
特に、善悪の判断は、ここまでの歴史として、仏教的思想が染みついています。
そのため、平安初期には「どのように仏教を政治から切り離すか」ということが重要になってきました。
遷都したこともあり、京にはまだ仏教が深く根付いているわけではありません。
これをいい機会、とばかりに複数の僧を仏教勉強のために中国に送りました。
804年、18回目の遣唐使の時代です。
旧都奈良から距離を取り、かつ新都で改めて仏教を学んだ結果、平安時代初期の政府は仏教とは切り離された、でも貴族の信仰は仏教、特に浄土信仰、という時代ができました。
簡単に言えば、現世には救いがないため、死後に極楽浄土に導かれる、と言うところでしょうか。
極楽への憧れから、かなり華美な建築が目立つようになります。
いわゆる、優雅な貴族のイメージ通りのものになります。
案外重要なのは、平安時代までの貴族は仏教徒であるものの、市民は特別仏教を厚く信仰していたとも限らない、という点です。
奈良時代までの仏教による政治と、平安時代の政治を行う人々の信仰としての仏教、という違いがあれど、基本的にはこの時代までの仏教は貴族のためのものです。
これには非常に大きな意味があります。
平安時代までの文化は、基本的に貴族の文化であって、民衆の生活がどうか、というところからは離れたものが多いのです。
例えば、『源氏物語』は貴族の宮廷における恋愛小説(陳腐な言い方ですいません…)であり、『枕草子』も貴族による日常エッセイにすぎないということです。
また、仮名の発生を見るのもこの時期ですが、貴族文化における、簡略化した記法のための道具にすぎませんでした。
さて、貴族社会において、権力と共に存在したのが土地です。
そして、主に藤原氏の権力も、浄土信仰とは切り離されておらず、故に平等院鳳凰堂等は本当に大きな出費となっていたでしょう。
これらの事情が、次の時代に関係しています。
ここまで壬申の乱以外大きな戦乱とはほぼ無縁でしたが、この後約700年近くが武士による時代です。
なぜ武士が台頭したのか、次回からは武士の時代です。