縄文土器の発生とともに、日本では植物食が中心に移行してきました。
14000年前頃のお話です。
そこから10000年と少し、本州、九州、四国での文化は大きく変わります。
この10000年間は、狩猟中心から農耕中心型生活への移行期、ともいえる時代でした。
紀元前6000年頃から稲作も始まっています(厳密にいつ頃から始まっているかは比定できていないらしいです)。
紀元前4000年ころには、漁業での交易目的で他の集落と交流したような形跡もあるとか。
貝塚等の存在から、定住も始まっています。
なお、いつまでを縄文時代、とするかは今も学術的に論争はあるようです。
ここでは縄文時代は争乱が常態化する前を縄文時代としておきます。
稲作が定着したころ、縄文土器と比べて薄くて堅い土器が発見されました。
いわゆる弥生土器です。
そしてこの弥生土器の出土した時代を弥生時代としています。
弥生時代の特徴は、高地性集落、環濠集落といった、他の集落から入りづらい場所に人が集まる時代でした。
なぜこのような集落ができていたのか。
それは、稲作と密接に関わった当時の生活に関係して、争乱が発生するようになっていたからです。
まず、米(稲)という植物ですが、収穫は秋に行われます。
この実は、とてもおいしい(個人的にはそうは思わないけれど)ので少しでも多く食べたいです。
そして、できることなら一年中食べていたい。
多く、長い間食べ続けるためには、当然保存の必要性が出ます。
この保存のために土器が使われていた、という点は縄文時代と基本は同じです。
違いは、少しでも多く、という部分です。
農産物は当然、作る場所の面積と収穫量に相関があるものです。
では、自分たちの土地で限界まで作っているのにもっと欲しい場合はどうすればいいでしょうか。
買う、というのは貨幣が流通する近現代の発想です。
交換する、ためにはお互いに違うものを欲しがらないといけません。
品種改良等で面積当たりの収穫量を増やす、というのは今だからできる方法です。
ということで、単純な話にすれば、他者から奪うのです。
争乱の発生です。
この争乱の時代、人が住んでいる集落をムラとしましょう。
そのムラが大きくなり、クニを作ります。
そして、そのクニとクニとが争います。
ある人物の登場まで、日本の中でのクニ間戦争が絶えなかったといいます。
そのある人物とは、卑弥呼。
彼女が治めた方法は占い等による、とされているようですが、「事鬼道、能惑衆」という記述の鬼道、惑の意味はわかってないようです。
彼女が活躍した時代は240年代。
弥生時代とされる時代の終わり頃です。
卑弥呼の死後は、また争乱が起こり、改めて女王を即位させたら静まった、とのこと。
その卑弥呼以外にも、力を持ったクニはあったかもしれません。
そして、クニがある以上、その統治者がいるはずです。
卑弥呼の国・邪馬台国がどこにあったのかはまだはっきりしていないことですが、この弥生時代の後、日本各地で大型の墓が数多くできます。
これを古墳と呼びます。
四大文明の一つ、エジプトにも同じ意図のもの・ピラミッドがありますが、ピラミッドと同じく、権力者の墓を、権力度合に応じて大きくしている、という傾向があるようです。
この古墳が多くできる時代が古墳時代と呼ばれ、この時代の中のどこかで大和朝廷ができていくことになります(大和朝廷の語句使用は論争がありますが、教科書はこれで書かれているはずなので)。
この古墳時代のとある力を持っていた大王の一族を中心に、この後を見ていくことにします。
次回から、ようやく史実と人がいっぱい出てくる内容です。
なお、この記事までで扱った旧石器、縄文、弥生、古墳各時代ですが、これらは全て本州、九州、四国を中心としたエリアの歴史になります。
沖縄や北海道はそれぞれに独自の文化、歴史を作っていきます。
が、教科書があまり扱わないので、ここでも残念ながら少しずつしか触れることができないかもしれません。
今後も上のエリア中心です。
14000年前頃のお話です。
そこから10000年と少し、本州、九州、四国での文化は大きく変わります。
この10000年間は、狩猟中心から農耕中心型生活への移行期、ともいえる時代でした。
紀元前6000年頃から稲作も始まっています(厳密にいつ頃から始まっているかは比定できていないらしいです)。
紀元前4000年ころには、漁業での交易目的で他の集落と交流したような形跡もあるとか。
貝塚等の存在から、定住も始まっています。
なお、いつまでを縄文時代、とするかは今も学術的に論争はあるようです。
ここでは縄文時代は争乱が常態化する前を縄文時代としておきます。
稲作が定着したころ、縄文土器と比べて薄くて堅い土器が発見されました。
いわゆる弥生土器です。
そしてこの弥生土器の出土した時代を弥生時代としています。
弥生時代の特徴は、高地性集落、環濠集落といった、他の集落から入りづらい場所に人が集まる時代でした。
なぜこのような集落ができていたのか。
それは、稲作と密接に関わった当時の生活に関係して、争乱が発生するようになっていたからです。
まず、米(稲)という植物ですが、収穫は秋に行われます。
この実は、とてもおいしい(個人的にはそうは思わないけれど)ので少しでも多く食べたいです。
そして、できることなら一年中食べていたい。
多く、長い間食べ続けるためには、当然保存の必要性が出ます。
この保存のために土器が使われていた、という点は縄文時代と基本は同じです。
違いは、少しでも多く、という部分です。
農産物は当然、作る場所の面積と収穫量に相関があるものです。
では、自分たちの土地で限界まで作っているのにもっと欲しい場合はどうすればいいでしょうか。
買う、というのは貨幣が流通する近現代の発想です。
交換する、ためにはお互いに違うものを欲しがらないといけません。
品種改良等で面積当たりの収穫量を増やす、というのは今だからできる方法です。
ということで、単純な話にすれば、他者から奪うのです。
争乱の発生です。
この争乱の時代、人が住んでいる集落をムラとしましょう。
そのムラが大きくなり、クニを作ります。
そして、そのクニとクニとが争います。
ある人物の登場まで、日本の中でのクニ間戦争が絶えなかったといいます。
そのある人物とは、卑弥呼。
彼女が治めた方法は占い等による、とされているようですが、「事鬼道、能惑衆」という記述の鬼道、惑の意味はわかってないようです。
彼女が活躍した時代は240年代。
弥生時代とされる時代の終わり頃です。
卑弥呼の死後は、また争乱が起こり、改めて女王を即位させたら静まった、とのこと。
その卑弥呼以外にも、力を持ったクニはあったかもしれません。
そして、クニがある以上、その統治者がいるはずです。
卑弥呼の国・邪馬台国がどこにあったのかはまだはっきりしていないことですが、この弥生時代の後、日本各地で大型の墓が数多くできます。
これを古墳と呼びます。
四大文明の一つ、エジプトにも同じ意図のもの・ピラミッドがありますが、ピラミッドと同じく、権力者の墓を、権力度合に応じて大きくしている、という傾向があるようです。
この古墳が多くできる時代が古墳時代と呼ばれ、この時代の中のどこかで大和朝廷ができていくことになります(大和朝廷の語句使用は論争がありますが、教科書はこれで書かれているはずなので)。
この古墳時代のとある力を持っていた大王の一族を中心に、この後を見ていくことにします。
次回から、ようやく史実と人がいっぱい出てくる内容です。
なお、この記事までで扱った旧石器、縄文、弥生、古墳各時代ですが、これらは全て本州、九州、四国を中心としたエリアの歴史になります。
沖縄や北海道はそれぞれに独自の文化、歴史を作っていきます。
が、教科書があまり扱わないので、ここでも残念ながら少しずつしか触れることができないかもしれません。
今後も上のエリア中心です。