日本史も更新再開です(とか言いながらまた1週間以上空いた)。
たしか平安京遷都までを書いていたはずですが、平安京に遷都しても問題は山積みでした。
桓武天皇の必死の親政も寿命には勝てず、後継者を決めます。
後継の皇子たちが実はとても仲が悪く、皇位をたらいまわしにします。
その結果、皇位の安定を迎えるのは清和天皇の時代、遷都から64年後のことです。
そして、この安定も陰謀を基にして作られた安定で、清和天皇の子で次代・陽成天皇を退位させ、清和天皇の叔父・光孝天皇に皇位が移ります。
皇位のたらいまわしと陽成天皇の退位は性質が異なることでした。
後者は藤原氏による譲位、というのが実態です。
なぜ藤原氏がここまでの力を持っていたのか。
それは、皇室に娘や姉妹を嫁がせ、外戚として権力を持つ、というあの蘇我氏がやっていた仕組みで、藤原不比等の子孫が外戚になっていたためです。
実は、皇位のたらいまわしをしている間、藤原氏内部での争いもさることながら、他の有力氏族との争いも多くありました。
例えば、823年の承和の変では、橘氏をはじめとした多くの有力貴族を排斥しました。
そんな他氏排斥の行動が功を奏し、清和天皇の時代には藤原良房が時の権力者として君臨しました。
陽成天皇の頃にはその権力者も良房の後継者・藤原基経に移っており、応天門の変等の政変でさらに権力を強めました。
権力の絶頂である藤原氏にとって目指したいのは、さらなる強権です。
その結果として、自分たちの言うことを聞く光孝天皇への譲位、という形で安定を作ったのです。
さて、光孝天皇はこの頃の皇位継承問題に巻き込まれることを嫌ったのもあって、自身の子を全員臣籍降下させます。
皇室の人間ではなく、一般人である、とすることです。
その臣籍降下した中から唯一天皇になったのが醍醐天皇で、彼の時代には摂政、関白を置かない政治が実現しました(延喜の治、といい、光孝では重要事項)。
醍醐天皇の系譜を確認してみると、養母も中宮も藤原基経の娘、左大臣(当時の一番偉い大臣)には藤原時平(基経の子)と、政権内には藤原氏の親戚がとても多く、そのため、対立する有力者である菅原道真を左遷する等、権力を独占しました。
たしか平安京遷都までを書いていたはずですが、平安京に遷都しても問題は山積みでした。
桓武天皇の必死の親政も寿命には勝てず、後継者を決めます。
後継の皇子たちが実はとても仲が悪く、皇位をたらいまわしにします。
その結果、皇位の安定を迎えるのは清和天皇の時代、遷都から64年後のことです。
そして、この安定も陰謀を基にして作られた安定で、清和天皇の子で次代・陽成天皇を退位させ、清和天皇の叔父・光孝天皇に皇位が移ります。
皇位のたらいまわしと陽成天皇の退位は性質が異なることでした。
後者は藤原氏による譲位、というのが実態です。
なぜ藤原氏がここまでの力を持っていたのか。
それは、皇室に娘や姉妹を嫁がせ、外戚として権力を持つ、というあの蘇我氏がやっていた仕組みで、藤原不比等の子孫が外戚になっていたためです。
実は、皇位のたらいまわしをしている間、藤原氏内部での争いもさることながら、他の有力氏族との争いも多くありました。
例えば、823年の承和の変では、橘氏をはじめとした多くの有力貴族を排斥しました。
そんな他氏排斥の行動が功を奏し、清和天皇の時代には藤原良房が時の権力者として君臨しました。
陽成天皇の頃にはその権力者も良房の後継者・藤原基経に移っており、応天門の変等の政変でさらに権力を強めました。
権力の絶頂である藤原氏にとって目指したいのは、さらなる強権です。
その結果として、自分たちの言うことを聞く光孝天皇への譲位、という形で安定を作ったのです。
さて、光孝天皇はこの頃の皇位継承問題に巻き込まれることを嫌ったのもあって、自身の子を全員臣籍降下させます。
皇室の人間ではなく、一般人である、とすることです。
その臣籍降下した中から唯一天皇になったのが醍醐天皇で、彼の時代には摂政、関白を置かない政治が実現しました(延喜の治、といい、光孝では重要事項)。
醍醐天皇の系譜を確認してみると、養母も中宮も藤原基経の娘、左大臣(当時の一番偉い大臣)には藤原時平(基経の子)と、政権内には藤原氏の親戚がとても多く、そのため、対立する有力者である菅原道真を左遷する等、権力を独占しました。