推古天皇・蘇我馬子・厩戸皇子の三頭政治以降、再び天皇家の外戚という立場で力を持った人がいます。
蘇我蝦夷・入鹿親子です(馬子の子と孫)。
背景としては、推古天皇崩御後、皇族内での後継争いが発生したため、三頭の一角の子孫として力があった蝦夷が後継者を選び、政務にあたった、という形。
本意で権力を持ったか否かは別として、天皇でもないのに権力を持つ、ということに関して、あまりいい顔をしない人達は確実にいます。
そのいい顔をしなかった一人が、中大兄皇子と中臣鎌足。
教科書ではこの2人により大化の改新が行われ、蘇我蝦夷・入鹿親子を討った、とされています(蘇我親子を討伐したのは乙巳の変というのが正しいです)。
大化の改新、というものであったかは実は今も議論がわかれるところですが、中大兄皇子と中臣鎌足は「天皇を中心とする、実力が優先される国家づくり」ということを考え、実行していった、と言えます。
そのための準備として、蘇我親子を討伐した、という見方もできると思いますが、『日本書紀』等の記述を受け入れれば、蘇我親子の独裁政治が目に余った、というのが理由のようです。
どちらにせよ、租調庸の税制度や、戸籍を作りそれに基づいて天皇の土地を貸し与える代わりに税を収める班田収授法を制定したのは中大兄皇子らの功績です。
実際にこれらの改革をしている時、中大兄皇子は皇太子のままですが、権力は天皇家に戻りました。
が、今度は天皇家内での権力争いが発生します(推古天皇崩御からずっと続いてはいるんですが、蘇我氏が権力を失ってから、という意味ではこの時期からです)。
最初は上の改革中の天皇・孝徳天皇と中大兄皇子。
不和となったすぐ後に孝徳天皇が崩御したため、表立った戦乱にはなっておりません。
孝徳の後を中大兄皇子の母が斉明天皇として継ぎ、その後中大兄皇子が天智天皇として即位します。
天智の治世下では、蘇我氏が力を持っていた頃の制度である大連・大臣の制度を廃止し、太政大臣・左大臣・右大臣といった役職を置くなど、645年(乙巳の変の年)以降続けていた改革を進めます(というかたしか即位前の方が改革多かったような…)。
2つ目の権力争いは、天智天皇崩御後に起こります(比較的小さな騒動は他にもあります)。
天智天皇の子である大友皇子(弘文天皇と追号されます)と大海人皇子による争いです。
乱の原因が何かは諸説ありますが、天智天皇も大海人皇子も天皇中心の国家づくりについては方向を同じとしていたものの、皇位継承をそれまでの兄弟優先の継承か、親子優先の継承か、に対する主張の違いから起きた争いであった、と私は考えています。
急進的に進んだ天智天皇の一連の改革が、臣下の豪族たちには受け入れられない部分があったのでしょう。
その不満を味方に付けた大海人皇子がこの争いに勝利します。
この一連の大友皇子と大海人皇子の争いを壬申の乱といいます。
おそらく、天皇家が明確に武力で衝突した最初の出来事、と言えるでしょう。
壬申の乱以降、大海人皇子は天皇として即位し、天武天皇となります。
天武天皇の代になって、ようやく天皇中心の政治、というものを実現する準備が整います。
天武天皇の孫(文武天皇)の代に大宝律令が制定され、この律令をもって「日本」という国号が正式に決まりました。
蘇我蝦夷・入鹿親子です(馬子の子と孫)。
背景としては、推古天皇崩御後、皇族内での後継争いが発生したため、三頭の一角の子孫として力があった蝦夷が後継者を選び、政務にあたった、という形。
本意で権力を持ったか否かは別として、天皇でもないのに権力を持つ、ということに関して、あまりいい顔をしない人達は確実にいます。
そのいい顔をしなかった一人が、中大兄皇子と中臣鎌足。
教科書ではこの2人により大化の改新が行われ、蘇我蝦夷・入鹿親子を討った、とされています(蘇我親子を討伐したのは乙巳の変というのが正しいです)。
大化の改新、というものであったかは実は今も議論がわかれるところですが、中大兄皇子と中臣鎌足は「天皇を中心とする、実力が優先される国家づくり」ということを考え、実行していった、と言えます。
そのための準備として、蘇我親子を討伐した、という見方もできると思いますが、『日本書紀』等の記述を受け入れれば、蘇我親子の独裁政治が目に余った、というのが理由のようです。
どちらにせよ、租調庸の税制度や、戸籍を作りそれに基づいて天皇の土地を貸し与える代わりに税を収める班田収授法を制定したのは中大兄皇子らの功績です。
実際にこれらの改革をしている時、中大兄皇子は皇太子のままですが、権力は天皇家に戻りました。
が、今度は天皇家内での権力争いが発生します(推古天皇崩御からずっと続いてはいるんですが、蘇我氏が権力を失ってから、という意味ではこの時期からです)。
最初は上の改革中の天皇・孝徳天皇と中大兄皇子。
不和となったすぐ後に孝徳天皇が崩御したため、表立った戦乱にはなっておりません。
孝徳の後を中大兄皇子の母が斉明天皇として継ぎ、その後中大兄皇子が天智天皇として即位します。
天智の治世下では、蘇我氏が力を持っていた頃の制度である大連・大臣の制度を廃止し、太政大臣・左大臣・右大臣といった役職を置くなど、645年(乙巳の変の年)以降続けていた改革を進めます(というかたしか即位前の方が改革多かったような…)。
2つ目の権力争いは、天智天皇崩御後に起こります(比較的小さな騒動は他にもあります)。
天智天皇の子である大友皇子(弘文天皇と追号されます)と大海人皇子による争いです。
乱の原因が何かは諸説ありますが、天智天皇も大海人皇子も天皇中心の国家づくりについては方向を同じとしていたものの、皇位継承をそれまでの兄弟優先の継承か、親子優先の継承か、に対する主張の違いから起きた争いであった、と私は考えています。
急進的に進んだ天智天皇の一連の改革が、臣下の豪族たちには受け入れられない部分があったのでしょう。
その不満を味方に付けた大海人皇子がこの争いに勝利します。
この一連の大友皇子と大海人皇子の争いを壬申の乱といいます。
おそらく、天皇家が明確に武力で衝突した最初の出来事、と言えるでしょう。
壬申の乱以降、大海人皇子は天皇として即位し、天武天皇となります。
天武天皇の代になって、ようやく天皇中心の政治、というものを実現する準備が整います。
天武天皇の孫(文武天皇)の代に大宝律令が制定され、この律令をもって「日本」という国号が正式に決まりました。