701年の大宝律令は、中央集権を目指した律(現代の刑法相当)令(民法等相当)でした。
この施行で、ひとまずは天皇中心の国家の完成です。
中大兄皇子から続く国家づくりの一つの集大成とも言えるでしょう。
710年には都を平城京に移し、基本的にはここが100年弱首都となります。
しかし、中大兄皇子の考えていた"国家"と、大宝律令施行がつくった"国家"は全く別で、皇位争いは沈静化していません。
そもそも、表立った争いはなくとも、盤石な時代ではなかったと言えるでしょう。
中臣鎌足の死後、皇族以外で力を持った1人に、彼の子の藤原不比等がいます。
大宝律令制定にかなり貢献し、中心として政権内で大きな力を持ちました。
また、元明天皇の時代に起きた平城京遷都にも大きく貢献しています。
彼が権力を持つ時代は皇位も安定しています(とは言っても後の聖武天皇が幼少であったため+天武天皇の子孫で有力な皇子がいないため女性天皇の時代が続いていて、表立ったことはほとんど起きていないにすぎないだけなのですが)。
不比等の死後は、政権内での有力者である不比等の4人の子(藤原四兄弟)と長屋王(天武天皇の孫ではあるが、持統天皇の流れではないため皇位継承しない家)とが対立し、藤原四兄弟が企てた長屋王の変で長屋王が敗死します。
長屋王の敗死により、朝廷内での有力者は藤原四兄弟が占領します。
その結果、彼ら兄弟の妹を聖武天皇の皇后とすることに成功します(光明皇后)。
光明皇后は、非皇族から出た最初の皇后で、後の世に重要な意味を持ちます。
さて、どっかで見たような、天皇と縁戚関係を持つことによる有力者化を達成した四兄弟ですが、彼らの天下はすぐ終わります。
都を中心とする各地で天然痘が流行り、737年に四兄弟全員が亡くなる等、大きく政局が変わります。
聖武天皇は、天然痘の流行りをなくすため、人ではないものに頼ります。
「どうか1年間、無病息災に過ごせますように」と初詣で祈願するのと似た感覚です。
頼ったのは仏教。
その結果、各地に国分寺を建て、平城京付近では東大寺に大仏を建てます。
全国に建てるわけですから、膨大な資金が必要です。
現代風に考えれば、これは公共事業であるため、税で資金繰りするわけです。
当時の税は、大宝律令発布前の、天智天皇時代の税制改革(租調庸など)をベースにしているので、国から分け与えた口分田の獲れ高に従います。
税収を増やすためには、一番単純な方法は、土地を開墾させ、獲れ高を上げることです。
当時の制度(三世一身法)では三代で土地を返すため、あまり開墾する意欲がわきません。
そこで、墾田永年私財法を発布し、開墾した土地はその人の土地とする仕組みが出来上がりました。
賛否はあったのでしょうが、天皇中心国家からの乖離の始まりです。
聖武天皇の後にはその娘・孝謙天皇(一度皇位を降り、重祚して称徳天皇)が皇位に就き、仏教を重く扱う政治を続けます。
そこに付け入った道鏡という僧が自身を称徳天皇の後の天皇にしようと画策したり、そのために他の有力者を失脚させたりします。
また、すっかり仏教に肩入れしすぎたため、盤石な権力とは言えない状況となりました。
称徳天皇の後、光仁天皇の治世下では、仏教が強く前に出ることは減りましたが、権力争いによる陰謀等が多く起こりました。
政教が一致していたために国が乱れた時代である奈良時代の文化は、天平文化と呼ばれ、奈良以前の時代、飛鳥時代の文化である白鳳文化と共に仏教文化でした。
大仏、寺院の建立が多かった、という特徴を持ちます。
どちらの文化も、中国等の大陸側から"輸入した"大陸に学んだ文化です。
ここから、日本が2回経験する"外国断ち"の最初の時代に入ります。
この施行で、ひとまずは天皇中心の国家の完成です。
中大兄皇子から続く国家づくりの一つの集大成とも言えるでしょう。
710年には都を平城京に移し、基本的にはここが100年弱首都となります。
しかし、中大兄皇子の考えていた"国家"と、大宝律令施行がつくった"国家"は全く別で、皇位争いは沈静化していません。
そもそも、表立った争いはなくとも、盤石な時代ではなかったと言えるでしょう。
中臣鎌足の死後、皇族以外で力を持った1人に、彼の子の藤原不比等がいます。
大宝律令制定にかなり貢献し、中心として政権内で大きな力を持ちました。
また、元明天皇の時代に起きた平城京遷都にも大きく貢献しています。
彼が権力を持つ時代は皇位も安定しています(とは言っても後の聖武天皇が幼少であったため+天武天皇の子孫で有力な皇子がいないため女性天皇の時代が続いていて、表立ったことはほとんど起きていないにすぎないだけなのですが)。
不比等の死後は、政権内での有力者である不比等の4人の子(藤原四兄弟)と長屋王(天武天皇の孫ではあるが、持統天皇の流れではないため皇位継承しない家)とが対立し、藤原四兄弟が企てた長屋王の変で長屋王が敗死します。
長屋王の敗死により、朝廷内での有力者は藤原四兄弟が占領します。
その結果、彼ら兄弟の妹を聖武天皇の皇后とすることに成功します(光明皇后)。
光明皇后は、非皇族から出た最初の皇后で、後の世に重要な意味を持ちます。
さて、どっかで見たような、天皇と縁戚関係を持つことによる有力者化を達成した四兄弟ですが、彼らの天下はすぐ終わります。
都を中心とする各地で天然痘が流行り、737年に四兄弟全員が亡くなる等、大きく政局が変わります。
聖武天皇は、天然痘の流行りをなくすため、人ではないものに頼ります。
「どうか1年間、無病息災に過ごせますように」と初詣で祈願するのと似た感覚です。
頼ったのは仏教。
その結果、各地に国分寺を建て、平城京付近では東大寺に大仏を建てます。
全国に建てるわけですから、膨大な資金が必要です。
現代風に考えれば、これは公共事業であるため、税で資金繰りするわけです。
当時の税は、大宝律令発布前の、天智天皇時代の税制改革(租調庸など)をベースにしているので、国から分け与えた口分田の獲れ高に従います。
税収を増やすためには、一番単純な方法は、土地を開墾させ、獲れ高を上げることです。
当時の制度(三世一身法)では三代で土地を返すため、あまり開墾する意欲がわきません。
そこで、墾田永年私財法を発布し、開墾した土地はその人の土地とする仕組みが出来上がりました。
賛否はあったのでしょうが、天皇中心国家からの乖離の始まりです。
聖武天皇の後にはその娘・孝謙天皇(一度皇位を降り、重祚して称徳天皇)が皇位に就き、仏教を重く扱う政治を続けます。
そこに付け入った道鏡という僧が自身を称徳天皇の後の天皇にしようと画策したり、そのために他の有力者を失脚させたりします。
また、すっかり仏教に肩入れしすぎたため、盤石な権力とは言えない状況となりました。
称徳天皇の後、光仁天皇の治世下では、仏教が強く前に出ることは減りましたが、権力争いによる陰謀等が多く起こりました。
政教が一致していたために国が乱れた時代である奈良時代の文化は、天平文化と呼ばれ、奈良以前の時代、飛鳥時代の文化である白鳳文化と共に仏教文化でした。
大仏、寺院の建立が多かった、という特徴を持ちます。
どちらの文化も、中国等の大陸側から"輸入した"大陸に学んだ文化です。
ここから、日本が2回経験する"外国断ち"の最初の時代に入ります。