古墳時代に力があった一族、とぼかして終わっていたものですが、天皇のことを指します。
が、教科書の表舞台に、いきなり権力者として現れることはありませんでした。
どのように権力を集めていくか、それを今回から扱います。
古墳の時代末期以降、天皇家の他、物部氏、大伴氏、中臣氏、蘇我氏等が力を持っていました(どの家も王朝の家臣ではあるんですが)。
そして、古墳時代から飛ぶこと300年程度、ある大きな出来事が起こります。
初の女性天皇・推古天皇が即位します。
推古天皇の即位の背景は、やはり権力争いから起きている出来事です。
即位の前時点で、仏教を取り入れるべきかどうか、という点に対して論争がありました。
中心は上に出てきた物部氏と蘇我氏。
仏教を排するべし、とする物部氏と、仏教を取り入れるべし、とする蘇我氏が争っている中、推古天皇の前代である崇峻天皇の即位で勝敗が確定します。
勝利するのは蘇我氏。
その後、当時の蘇我氏の中心である蘇我馬子(名前の終わりが子、だけど男です)が崇峻を暗殺し、蘇我氏が絶対的な力を持ちます。
実はこの蘇我氏はこの時代のほとんどの皇族と親戚関係で、崇峻天皇は馬子の娘婿かつ甥(妹の子供)、推古天皇も姉方の甥(そしてどちらの甥も父親は欽明天皇)。
この、娘を天皇家(または権力者)に嫁入りさせその外戚として権力を得る、という構造は、日本史上最も重要な人間関係であるので、一つの型として意識してください。
少なくとも鎌倉時代までは教科書に載るレベルで表に出てきます。
元々は物部氏よりも下位であった蘇我氏が力を持つ背景としては、この血縁が外せません。
より蘇我氏が権力を持ちやすいように、崇峻天皇暗殺後に皇族の中で一番都合がいい人を天皇にしたのが推古天皇というわけです。
推古天皇は皇太子として厩戸皇子(聖徳太子)を立て、蘇我馬子と三頭政治を行いました。
有名な冠位十二階や十七条憲法と行った制度を制定し、国家発展の勉強として小野妹子(-子、だけど男)らを遣隋使(隋は中国の当時の国名)として派遣したのが覚えるべき出来事。
このまま三頭政治がうまくいけば良かったのですが、寿命には勝てません。
厩戸皇子、蘇我馬子、推古天皇が相次いで亡くなると、国家はまた荒れました。
次回は、ここから王権を確立するまでを扱います。
が、教科書の表舞台に、いきなり権力者として現れることはありませんでした。
どのように権力を集めていくか、それを今回から扱います。
古墳の時代末期以降、天皇家の他、物部氏、大伴氏、中臣氏、蘇我氏等が力を持っていました(どの家も王朝の家臣ではあるんですが)。
そして、古墳時代から飛ぶこと300年程度、ある大きな出来事が起こります。
初の女性天皇・推古天皇が即位します。
推古天皇の即位の背景は、やはり権力争いから起きている出来事です。
即位の前時点で、仏教を取り入れるべきかどうか、という点に対して論争がありました。
中心は上に出てきた物部氏と蘇我氏。
仏教を排するべし、とする物部氏と、仏教を取り入れるべし、とする蘇我氏が争っている中、推古天皇の前代である崇峻天皇の即位で勝敗が確定します。
勝利するのは蘇我氏。
その後、当時の蘇我氏の中心である蘇我馬子(名前の終わりが子、だけど男です)が崇峻を暗殺し、蘇我氏が絶対的な力を持ちます。
実はこの蘇我氏はこの時代のほとんどの皇族と親戚関係で、崇峻天皇は馬子の娘婿かつ甥(妹の子供)、推古天皇も姉方の甥(そしてどちらの甥も父親は欽明天皇)。
この、娘を天皇家(または権力者)に嫁入りさせその外戚として権力を得る、という構造は、日本史上最も重要な人間関係であるので、一つの型として意識してください。
少なくとも鎌倉時代までは教科書に載るレベルで表に出てきます。
元々は物部氏よりも下位であった蘇我氏が力を持つ背景としては、この血縁が外せません。
より蘇我氏が権力を持ちやすいように、崇峻天皇暗殺後に皇族の中で一番都合がいい人を天皇にしたのが推古天皇というわけです。
推古天皇は皇太子として厩戸皇子(聖徳太子)を立て、蘇我馬子と三頭政治を行いました。
有名な冠位十二階や十七条憲法と行った制度を制定し、国家発展の勉強として小野妹子(-子、だけど男)らを遣隋使(隋は中国の当時の国名)として派遣したのが覚えるべき出来事。
このまま三頭政治がうまくいけば良かったのですが、寿命には勝てません。
厩戸皇子、蘇我馬子、推古天皇が相次いで亡くなると、国家はまた荒れました。
次回は、ここから王権を確立するまでを扱います。